
武田信玄が菩提寺と定めた山梨県甲州市塩山にある恵林寺へ案内いたします。
心静かに禅で悟りを開く臨済宗・恵林寺。
その歴史は、今からは想像もつかない過酷なものでした。
その形跡を歩いてみましょう。
臨済宗 妙心寺派乾徳山 恵林寺
〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
℡ 0553-33-3011

夢窓国師(むそうこくし)
夢窓疎石・むそうそせき (夢窓国師・むそうこくし)
武田信玄の菩提寺、恵林寺は、1330年に夢窓国師によって創建されました。
夢窓疎石(むそうそせき)は山野に隠遁する生き方を切望していました。 しかし、徳望の高さから 後醍醐天皇と足利尊氏(源氏の血筋)、足利直義(足利尊氏の弟)の対立など 権力闘争に仏教的な慈悲と和合の道を説き続けました。 夢窓疎石の記録には、 足利尊氏の性格を「尊氏という人は、多くの敵を許し 、家臣におしみなく財宝を分ける」と残しています。
黒門
黒門の前に駐車場(一か所目)があります。
*二か所目はのちに案内いたします。

春を感じ始めた2月下旬の恵林寺です。

すぐ横にカフェがありますので、拝観後ひと休みにもいいですね。

四脚門(通称・赤門)

四脚門は(しきゃくもん)は別名、赤門と言われます。
1582年の織田信長の甲州征伐で焼失しましたが、1606年に徳川家康が再建しました。

三門

ここ三門は 快川国師(かいせん・こくし)が壮絶な最期を遂げた場所です。
そんな悲しい歴史をお伝えいたしましょう。👇
快川国師(かいせん・こくし)

快川紹喜・かいせん じょうき(快川国師・かいせん・こくし) 武田信玄の招きにより恵林寺の住職になりました。 信玄亡き後、武田家の当主・武田勝頼の師となり信玄の死後3年の安骨葬儀で大導師を務めています。 *大導師:お葬式や法要を進行する一番上に立つ位の高い僧侶 1582年 3月 織田信長は武田勝頼、信勝親子を天目山へ追い詰め自害させ、武田家が滅亡しました。 4月 織田信長の軍勢が恵林寺を取り囲みました。僧侶や人々たちが三門桜閣上に押し込められ焼き殺されたそうです。 快川国師は 「心頭滅却すれば火も自(ひおのずから)涼し」と大喝一声し、動揺を鎮めて端座し運命を受け入れ共にした,といわれています。 *端座(ずいざ): 姿勢をくずさずきちんと座る *大喝一声(だいかついっせい):大きな一声で𠮟りつけること。厳しく叱ったり励ます。 6月 本能寺の変で織田信長が襲撃され火を放って自害しました。

たった数か月の間に壮絶な運命をたどった甲斐の国でした。
さらに、快川国師ほか僧侶 や人々を焼き討ちした2か月後、織田信長自らが本能寺で火を放ち自害するとは、なんとも不思議な因果ですね・・。
歴史は謎ばかりです。

中へはいりますが、先に他の駐車場を案内いたします👇
駐車場

右👉には大型車専用駐車場があります。
👈左へ曲がります。
(信号の先に、黒門があります)


道は狭いですが、待機スペースがあるので、
譲り合い運転ですと問題なく通行 ⇆ できます。

駐車場案内🅿の通り進みます。





庫裡(くり)

庫裡(くり):僧侶の居住する場所

靴を脱いで、参りましょう。



方丈庭園
枯山水式(かれさんすいしき)の庭園です。
*池や川などの水を用いず、砂や石などを用いて水面に見立てた日本庭園です。


おっと!
ここからは撮影禁止なので電源きります。
<m(__)m>
この先には、『うぐいす廊下』や武田信玄をモデルにしたといわれる『不動明王』をご御覧いただけます。
もちろん、『武田信玄夫妻の墓』と『柳沢吉保夫妻の墓』があります。
うぐいす廊下
床の上を歩くとうぐいすが鳴くような音が聞こえます。
(キュッキュッと聞こえるけど・・)
床がかすかに動いて音が出る仕組みになってるので、外部からの侵入者を知らせるために作られました。
(今でいうセコムやALSOK・アルソックでしょうか?)
*頑張って音を立てないようにそーっと( ^^) ~~ 歩いてみましたが、無理でした。
すごい!

柳沢吉保公墓所(やなぎさわ よしやす)
柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)譜代大名
武田信玄夫妻の墓の横に、柳沢夫妻の墓があります。
歴史とは不思議な絡まりがありまして、ここでは、ほかの方面から見てみましょう。

徳川忠長(とくがわ ただなが) 徳川幕府二代将軍・徳川秀忠と正室・お江与の3男、すなわち徳川幕府三代将軍・徳川家光の弟です。 *お江与(おえよ):織田信長の妹・お市の3女で、お江(ごう)です さらに、徳川忠長はドラマでもご存じ春日局(お福)で、将軍争いになったお方です。 駿河国・遠江国を与えられ甲斐国を合わせて55万石を領する大納言となりました。 しかし、母のお江与(おえよ)が亡くなると数々の奇行が横行するようになり、 高崎(上野国)へ幽閉されました。 1633年12月6日に高崎城で自刀しました。享年28歳でした。 *すなわち、徳川家光には織田信長のDNAがはいってるんですね。 家光の姉には千姫がいます。
柳沢吉保(やなぎさわ よしやす) 祖父の話からまいりましょう。 柳沢家は元々は武田家の家臣でした。 祖父・信俊(のぶとし)は「三方ケ原の戦い」や「長篠の戦い」で戦いましたが、 武田家滅亡後は家康に仕えました。 父・安忠(やすただ)は「大阪夏の陣」で戦い、その後、徳川忠長(徳川家光の弟)に使えました。 徳川忠長が亡くなると、浪人生活を送りますが後に、徳川家光の第四子、徳松(徳川綱吉)の付きを命じられました。その後は徳川綱吉に仕え、恵林寺で行われた武田信玄百回忌の法要では徳川綱吉家臣33名のうち安忠と吉保の名があります。 父・安忠が官職をやめるにともない吉保(よしやす)が家督を相続し、第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて側用人をつとめました。 吉保は駿河の所領を返上の代わりに甲斐国の巨摩・山梨・八代の3郡を与えられ、1705年4月10日、恵林寺にて武田信玄の百三十三回忌の法要を執り行うなど、大老格として幕政を主導しました。 信玄公と同じ甲斐源氏の一族、 武川衆であることを強く自負していました。 吉保の妻、定子は夫に寄り添い妻の鏡のような夫人でした。病弱なため子供が授かりませんでしたが、夫の側室の子の名づけ親になるなどの気遣いを常にしていました。 吉保は定子を大切にいたわり、家族思いの人柄でした。 また、将軍綱吉も定子への気遣いの数々があったそうです。 1712年妻の定子が亡くなり、2年後の1714年11月2日に死去しました。享年57でした。 今では恵林寺の武田信玄夫妻の墓の横に、仲良く寄り添う柳沢夫妻の墓があります。

信玄公宝物館


江戸時代から現代までの雛人形が展示されています。
雛人形は撮影OKですが、宝物館は撮影が禁止なので写真がありません。
🙇;
ですが、戦国最強の武将と恐れられた武田軍の強さと、幻の城と消えた新府城と天目山での悲劇の歴史を感じることができます。
時間があるときには、ぜひお立ち寄りください。
武者だんご
拝観も終わったので、大好きなお団子🍡をいただきましょう。
『武者だんご』ってなんだか美味しそうですね。

おばあちゃんが一人います。
「すみません!武者だんごください」
「はい、どれにしますか?」
あれ?聞こえなかったのかな?
「武者だんごです!!」
( ^^)v
「どれにしますか?」と指さした先をみると、団子のレプリカがある。。。
あ~~屋号なのね (一一”)

『あまから』と『よもぎだんご』を頂きました。

2月。まだ春の景色はないけど恵林寺の歴史を歩いてきた後のお団子は、静かに春の香りがしたような気がしました。

紅 葉
そして・・
時は流れて恵林寺もすっかり紅葉に化粧直しです。


もう一度、正門の四脚門(赤門)から歩いてみましょう。
階段を上り赤門から奥まで三門、開山堂が一直線にあるのがみえるでしょうか?



すぐ横に快川和尚の碑があり遺骨が埋葬されています。

碑には「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」とあります。
山梨・甲州のみならず最後の瞬間まで世の中の平和を願い続けたのではないでしょうか?
碑を見上げながら、現在の平和な時代の報告と安らな冥福をお祈りしました。


夢窓疎石(むそうそせき)、快川紹喜(かいせんしょうき)、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)の三像が堂内に安置されており、甲州市指定文化財になっています。

散策しましょう。



庭園へ

秋の風景に日本の静かな美を感じますね。
無意識に胸の奥から深い深呼吸をしてしまいます。

それでは最後にもう一度お団子を食べて・・と
「すみませ~ん」と呼びましたが、だ~れもいませんでした。
窓も開いたままですけど・・
さて、帰ろうかな・・・と歩いていると

ん??なんかいる!

ねこ😸
あれ~。全然動きません。ちらっと、目を開けてこっちを見るけど知らんぷり。
恵林寺の住人様でしょうか?
最後の最後で、ほっこりと癒されました。
長くなりましたが、いかがでしたでしょうか?
恵林寺は『うぐいす廊下』と『武田信玄のお墓』があることで有名ですが、たくさんの方々との関わりの中、悲しさも嬉しさも全てを受け入れてきました。
これからもずっと、変わりゆく世の中をここ、塩山で静かに見守ってくれることでしょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。
Rokusun