武田勝頼が およそ60日の滞在で自ら火を放った悲運の幻の城、新府城跡(しんぷじょうあと)に案内します。(山梨県韮崎市・にらさきし)
国の指定文化財(史跡)に指定と続日本百名城に選ばれ、NHK大河ドラマ「真田丸」のロケ地にもなりました。戦国最強の武田軍の栄光と悲しい最期を回想しながら、今は無きその城跡を散策してみませんか?
では、参りましょう!
〒407-0262
山梨県韮崎市中田町中條上野字城山
最初にかる~く武田氏の流れを見てみましょう。
新府城はなぜ築城されたの?
鎌倉時代に源頼朝(みなもとのよりとも)から国家を守る役目として武田信義が駿河守護に任命されました。
甲斐国(かいのくに)の守護・武田氏の本拠地は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:山梨県甲府市)に置かれていました。
周辺には家臣、石和近辺に一族を住まわせ寺社の再興や商職人の町を整備するなどを行い、現代にもつながる城下町をつくりました。
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は別名「武田氏館跡」といわれ国の史跡に指定され、跡地には武田神社があります。
*守護とは警察のようなものですが、今ほどの強い権限はありませんでした。
〒400-0014 山梨県甲府市古府中町2611
信虎、晴信(信玄)、勝頼の3代の本拠地として機能していた躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は平地に築かれた城、平城(ひらじろ、ひらじょう)でした。
- 平城 :(ひらじろ・ひらじょう)平地に造られたお城のため周辺に家臣や一族を住まわせるなどして城下町が作られ経済発展にもつながりました。しかし防護には乏しいため、お城周辺の堀や門も多く造り万全の体制作りを工夫する必要がありました。名古屋城(愛知県)、松本城(長野県)、広島城(広島県)、小倉城(福岡県)岡県)、駿府城(静岡県)、二条城(京都市)
- 平山城:(ひらやまじろ・ひらやまじょう)平城と山城の中間いわば平地では心配なのでちょとだけ上の丘陵(きゅうりょう)にお城を造ったスタイルです。姫路城(兵庫県)、津山城(岡山県)、松山城(愛媛県)は日本三大平山城です。会津若松城(福島県)、小田原城(神奈川県)、彦根城(滋賀県)、高知城(高知県)、熊本城(熊本県)
- 山城 :(やまじろ・やまじょう)名前のとおり山に築かれたお城です。地形そのものが防護力をもつほか、鎧兜(よろいかぶと)をつけたまま攻め登ってくるだけでも体力を消耗させることができました。戦国時代には重要な建築形態でしたが、平和な時代になると使い勝手の悪さから平城や平山城へと建築スタイルが移行していきました。岩村城(いわむらじょう:岐阜県)、高取城(たかとりじょう:奈良県)、備中松山城(びっちゅうまつやまじょう:岡山県)、久能城(くのうじょう:静岡県 *現在の久能山東照宮)、岩殿山城(いわどのやまじょう:山梨県)
- *大阪城(大阪府;平城と分類されることもあります。) 江戸城(東京都:現在の皇居。平城と分類されることもあります。)
武田勝頼が長篠の戦いで大敗北したため、徳川家と北条氏からの侵攻に備え、七里岩台地を利用した「新府城」が築かれました。
七里岩(しちりいわ)は八ヶ岳の山体崩壊でできた平坦地を釜無川と塩川によって削られた岩で、高さ10mから40mで南北30㎞(約7里)続くことからこの名がついたとされています。
そのため、七里岩台地の上に建てられた新府城は西側からは攻められない地形にあります。
また、城跡地には藤武神社(ふじたけじんじゃ)が建立されており武田勝頼公を御祭神とし、地域では「お新府さん」と呼ばれ親しまれています。
新府城はなぜ幻の城になったの?
- 1581年12月に武田信玄の息子、武田勝頼によって築城されました。
- 1582年、親族の木曽義昌が織田信長に寝返ったため、織田・徳川軍からの侵攻(甲州征伐)になりました。さらに親族の穴山氏や家臣の寝返りで武田軍の力は弱まっていきます。
- 1582年3月3日、自ら新府城に火を放ち退去。小山田信茂の手引きで岩殿城に向かいますが、逃亡中にも隙を見て逃げ出すものもいました。さらに、小山田信茂の裏切りにより・・・
- 1582年3月11日、ついに天目山(山梨県甲州市大和町)で勝頼ほか、夫人と息子(信勝)とも自害しました。最後は武士40人ほど、残りは妻の北条夫人と女中のみだったといわれています。
約2ヶ月の滞在で自ら火を放った悲運の新府城とともに戦国最強と呼ばれた武田家は滅亡しました。
新府城はNHK大がドラマ「真田丸」のロケ地にもなりました。
では、新府城へ出発しましょう
はじめにお詫びをしますと・・・
当日はあまり調べず、いきなり新府城を訪れてしまったので、なんとも薄味な案内になっております。。
ということで出発します。
道を通るたび気になる案内板『新府城跡』
ここへ駐車して・・
車は入れないらしいです・・
あれ? 誰もいなくて木が風にゆれる音って一人だと、ちょっぴり不安。
いや・・かなり不安かも
ちょっと早足
これが新府城?
どこまで続くんだろ?
すると男性2人が歩いきて、この先に何があるのか聞いてみたら、なんと神社があって、下の道にでる階段があるそうだ。
よし!頑張って行ってみよう
またすぐに人が降りてきた!と思ったら・・
着いちゃった ^^;
え!!??広い! これまた意外に人がいる
いつの間に上ってたのかな?
ほかにも道があるのかな?
杖をついたお年寄りも結構おおいです。
今はお城の面影もなく、小高い山の静かな公園のようになっていますが、その時代はたくさんの武将と人々でにぎわっていたことでしょう。
武田勝頼のそばには、君主に仕えた武将の慰霊碑が建てられています。
勝頼の魂は今でも、ここから甲斐の国の繁栄を見守っていることでしょう。
真田丸
武田勝頼築城の未完の城・新府城跡
大河ドラマ「真田丸」のロケ地
武田の里にらさき
と、旗に書かれています。
あれ!? これが階段かな!
ということは、ここが正門でみんな階段で上がって来ていたようです。
やってしまた・・・
では、帰りは正門から降りることにしましょう。
駐車場まで、ちょっと歩くだろうけど致し方ない・・・
急な階段なので慎重におりないと転げ落ちたら大変・たいへん!
慎重に降りて・・
だんだん道路に近づいてきました。
あと少し
ん???
え!?!?
なんでーーーーーー??
すぐそこに駐車場がある
ガ━━━━━━∑(゚д゚lll)━━━━━━ン
時をもどそう・・・
この前を気づかずに通過し
この「新府城跡」の案内をみて駐車。
意気揚々とここから上り始めたってことだ!
参った
(ー’`ー;)う~ん・・・・
これにて新府城跡終了
退散
いかがでしたか?
武田信玄のイメージが強い甲斐の国、山梨県ですが、武田家の最後は息子の武田勝頼があの織田信長を脅かすほどの力をもっていました。長篠の戦いでは武田軍15,000に対し徳川家康は8,000。その徳川家康に織田信長は30,000の援軍を送りました。援軍の中には羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)、前田利家、柴田勝家、明智光秀(非参戦の説があります)など、名だたる武将が武田軍へ向かって行ったのです。
このことから察するように、織田信長がいかに武田軍の壊滅を望んでいたか・・
また、甲州征伐(こうしゅうせいばつ)で知られるように1582年3月11日、天目山で勝頼が自害し武田家が滅亡したにもかかわらず、1か月後の4月、武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗のお寺、塩山の恵林寺(えりんじ)を織田信長の軍勢が取り囲み僧侶や人々たちを三門桜閣上に押し込めて焼き殺したそうです。〈呂孔さん紀行:恵林寺〉
*この恵林寺の焼き殺しの2か月後の6月、織田信長が「本能寺の変」で襲撃され自ら火を放って自害しました。なんとも不思議な因果関係です。
武田軍は、あの織田信長をこれほど震撼させるまでに猛威を振るった、まさに戦国最強軍団だったのかもしれません。
こんなに有名な武将たちと戦った武田勝頼を身近に感じられる新府城跡です。
また訪れて、気持ちだけでもタイムスリップしてみようかな・・?!
最後までご覧いただきありがとうございました。
Rokusun