昔々、西湖と精進湖は一つの湖でした。ところが平安時代に起こった富士山大噴火で西湖と精進湖が分断されたのです。その噴火の凄まじさは「神の怒りでは?」と思うほど人々を不安と混乱に巻き込みました。この富士山の大噴火を鎮(しず)めるために「河口浅間(あさま)神社」が祀(まつ)られました。
今ではまったく想像がつかないほど神聖な静寂だけが漂っています。
それでは、参りましょう。
はじめに
富士山の噴火についてサラッとお話しします。
約5,000年前(縄文時代の中期)から約2,000年前は西湖、精進湖、本栖湖は一つの湖でした。 繰り返す火山噴火で火山灰や溶岩が流れ込んだことにより本栖湖だけが分かれました。 そして平安時代のはじめ、貞観6年~8年(じょうがん)864~866年の富士山大噴火(貞観大噴火:じょうがんだいふんか)で残りの湖が西湖と精進湖に分断されたのです。 (*ちょっとややこしいですね・・^^;)
その当時の凄まじい様子を記した記録では
大地震が3回あり、10日以上火の勢いが続いて4~8キロ先の山まで焼き尽くし、石や砂が雨のように降りそそぎました。 溶岩が本栖湖とせの海(せのうみ)に流れ入り、湖は熱湯で魚や亀も民家も全滅し民家には人影もありません。 大地震、雷、豪雨で雲や霧の異様な暗闇に包まれ、山や野の区別もつかないほどでした。 *せの海(せのうみ):西湖と精進湖が一つの湖だったときの名称です。
と、記されています。
この西湖と精進湖が分断されるほど凄(すさ)まじい富士山大噴火の鎮火を願い、翌年の865年勅令(ちょくれい)により『河口浅間(あさま)神社』が創建されたといわれています。
*勅令(ちょくれい):天皇・皇帝・国王など君主が直接だす命令や法令なので即効力のある命令です。
くり返しになりますが・・
大昔は河口湖から本栖湖まで大きな湖でした。長い年月をかけ富士山やその周辺で大噴火が繰り返し起こり、溶岩などが流れ込んで分断されることで、それぞれの湖が出来上がったのです。
余談ですが・・
本栖湖の底からは縄文時代(約5,000年前)のものと思われる土器や石器も見つかっていて、周辺に人々が住んでいた証拠となっています。
と、さらっとのはずが、少し濃い説明になりました。
河口浅間(あさま)神社
401-0304
山梨県南都留郡(みなみつるぐん)富士河口湖町河口1
駐車場(無料)
バス:5台
普通車:30台
駐車場から雄大な富士山がみえます。
駐車場には整備されたトイレもあります。
道路を渡るとすぐに河口浅間神社です。
ご祭神は木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)という美しい女神様で「竹取物語」のかぐや姫のモデルともいわれているそうです。 安産・家庭円満・子育て・良縁・火難消除け・災除けの神様とされています。
そのまま進むと・・
👈左の道があってここから「母の白滝」へ行くことができ、神社の裏の道路へつながっています。
でも、今回は「母の白滝」へは行かず、まっすぐ境内へ参りましょう。
樹齢800年余の杉の木が圧巻の迫力で並んでいます。
波多志神社 (伴直真貞:とものあたいまさだ)
富士山大噴火のさい、伴直真貞(とものあたいまさだ)を祝(はふり)として大噴火を鎮(しず)めるため『鎮祭』を行いました。
*祝(はふり):神道において神に奉仕する人の総称。
そのため、河口浅間神社の創祀者(そうししゃ)である伴直真貞(とものあたいまさだ)を祭神として波多志神社を称え(たたえ)祀(まつ)っています。
清めましょう!
随神門を通りますが、
気になるのでこちらをちょっと、のぞいてみると・・
左大臣と右大臣がとても優しいお顔で神様をお守りしていました。
神さまが乗る馬とされています。
雨を願うときには「黒毛の馬」、晴れを願うときは「白毛の馬」を奉納したそうです。
現代では馬のお世話が負担になることから『等身大の馬』や『絵馬』を神馬とされていることが多いそうです。
伊勢神宮(三重県)・神田明神(東京都)・住吉大社(大阪市)・日光東照宮(栃木県)・金刀比羅宮(香川県)・大石神社(京都市:赤穂浪士を祀っています)など、神馬を飼育している神社が数少ないながらあるそうです。訪れた際にご覧いただけるといいですね。
参拝をします。
拝殿の奥に朱色の社殿が本殿です。
本殿の上を見るとチラッと見えるものがあります。
『大元霊(おおもとだま)』の額で、なんと!醍醐天皇の直筆で、本殿とともに富士河口湖町の有形文化財に指定されています。
👆はっきり見えないのでパンフレットを引用させていただきました。
北白川宮成久王殿下 (きたしらかわのみや なるひさおうでんか)
拝殿の手前にほっそりとした松の木があります。
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう) が大正2年(1913年)11月11日、26歳のときに植えられた松だそうです。
今から約108年ほど前に植えられました。100年ほど経ってもまだこんなに小さいんですね。
ここで、 北白川宮成久王についてご紹介いたします。
北白川宮成久王はとても美男子だっだそうです。ご覧のとおりまちがいありません。
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう)は1887年〈明治20年〉4月18日に北白川宮能久親王の第3王子としてお生まれになりました。 陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐になり、成年を迎え貴族院議員となりました。1909年(明治42年)明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王(かねのみや ふさこないしんのう:1890年 明治23年1月28日生)と結婚されました。 【*昭和天皇は房子内親王の甥(おい)にあたります】 周宮房子内親王(北白川房子)は家庭的な良妻賢母で、成久王によく尽くしたそうです。 1921年(大正10年)から軍事・社交の勉強のためフランスのサン・シール陸軍士官学校へ留学しました。 ほどなく房子妃もフランスへ渡りお二人は社交界でも評判が高かったそうです。 しかし、留学中に自動車免許を取得した成久王は1923年(大正12年)4月1日、房子妃、他と共に自家用車ヴォワザン23CVでドライブにでかけた先でスピード超過で横転、木に激突し死亡しました。ほぼ即時状態だったといわれています。 誕生日を目前にした35歳という若さでした。 房子妃も複雑骨折の大怪我を負い、以後は足が不自由となりました。 成久王のご遺体は4月3日フランスの日本大使館に到着し、4月21日にパリを出発、5月29日神戸港に到着しました。 6月8日豊島岡墓地で斂葬の儀(れんそうのぎ)が行われました。 *豊島岡墓地:皇族(皇后を除く)専用の墓地 *斂葬の儀(れんそうのぎ):天皇・皇族の本葬
* ウィキペディア(Wikipedia)引用
河口浅間神社では大輪の杉の木に目がいってしましますが、 北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう) が植えられた100年余りの松の木もご覧ください。
連理の楓(れんりのかえで)
北白川宮成久王 の松の木のすぐ隣に『連理の楓・れんりのかえで』という木があります。
【連理(れんり)とは、別々の木が重なって一つになる意味で夫婦・男女の中睦ましいことをいう】と書いてあります。
確かに、もともとは二本の木のようです。
でも、上をみると一つになってますね。
不思議!
樹齢1,200年!7本の杉の木
山梨県指定天然記念物の7本の杉の木があり、いずれも樹齢1,200年といわれています。富士山大噴火が起こった平安時代から、ここでたくさんの人々を見守ってきたのですね。
もしかしたら武田信玄や徳川家康など歴史上の人物にもお会いしてるのかもしれませんね。
①御爾(みしるしすぎ)
②産謝杉(さんしゃすぎ)
③齢鶴杉(れいかくすぎ)
④神綿杉(しんめんすぎ)
出雲社がります。
その裏にいくと・・
⑤⑥両柱杉(二柱杉)があります。
こちらは、伊耶那岐命(いざなぎのみこと:男神)と 伊耶那美命(いざなみのみこと:女神)の二柱の神を現した神樹です。
『良縁・縁結び』の杉とされています。
⑦天壌杉(てんじょうすぎ)
根廻りが30mあり、河口浅間神社のなかで根廻りが一番大きい杉であるため、『神木』とされています。
今までの杉と見比べると、根っこのあたりがグッと大きいのがわかるはずです。
鳥居をくぐってから、たくさんの木々をみてきましたが、小さいながらも池があります。
木々を見ていると歳月の流れを感じますが、水を見ると静かな無のときを感じます。
富士山の大噴火を鎮めるために創設された河口浅間神社ですが、今では想像もつかないほどの静寂に包まれています。
河口湖へお越しのさいは、ちょっと足をのばしてお立ち寄りいただき心静かなひとときをお過ごしください。
最後までご覧いただきありがとうございました。
Rokusun